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现地说明会资料No

現地説明会資料No.

村前むらまえ東ひがし

A遺跡?柄がら目め木き

遺跡 現地説明会資料

京ヶ島

村前東A 遺跡

飯森杉

柄目木遺跡

柄目木遺跡上空から新潟方面を望む

日 時:平成21年9月19日(土) 10:30~12:00、13:00~15:00 場 所:新潟県阿賀野市飯森杉 村前東A 遺跡?柄目木遺跡発掘調査事務所 主 催:国土交通省新潟国道事務所 財団法人新潟県埋蔵文化財調査事業団

株式会社ノガミ

阿賀野川

村前東A遺跡 ● ●柄目木遺跡

●境塚遺跡

調査の概要

村前東A遺跡?柄目木遺跡は、阿賀野川右岸の沖積地に立地し、周辺には水田が広がっています。

遺跡の標高は、村前東A遺跡?柄目木遺跡とも約6mです。現在の集落が広がる自然堤防上よりは1段低い面に立地しますが、かつての氾濫原より2mほど高く、治水が進んだ現在では洪水に見舞われにくい環境にあります。しかし、遺跡に積もった土を観察したところ、かつては洪水を被った時期もあったようです。

このたび阿賀野バイパス建設に伴い、村前東A遺跡5,650㎡、柄目木遺跡3,226㎡を発掘調査したところ、中世(13世紀後半~14世紀/鎌倉時代後半~室町時代前半)の集落を発見しました。近年、阿賀野市域では大坪遺跡(11~12世紀)?堀越館跡(14世紀後半~15世紀)?鴨深甲遺跡(13世紀後半~14世紀)?山口遺跡(13世紀後半~14世紀前半)?境塚遺跡(13世紀後半~14世紀)など、中世の集落が相次いで見つかっています。周辺に同時期の遺跡が密集する背景について検討していくことが課題です。

村前東A遺跡?柄目木遺跡に集落が営まれた頃のできごと

発掘作業の様子(村前東A遺跡の井戸の掘削)発掘作業の様子(柄目木遺跡の大溝の掘削)

村前東A

大溝

大溝

集落の中心部分

遺跡の測量図(1:700、1マス10m×10m)

掘立柱建物が集中する集落の中心部分 →

見つかった多くの柱穴の大きさ?深さ?形、配列の規則性、穴につまっている土の様子などを観察して、柱穴の組み合わせを見いだしていきます。このような検討を経て掘立柱建物を復元します。復元した掘立柱建物は、大溝とおおむね同じ向きで建てられており、南向きが多いようです。

村前東A 遺跡の地層

地層を観察したところ、2層(上層?下層)の遺跡(集落)が存在することが分かりました。上層(黄色)

?下層(白色)の遺構とも、13世紀前半~14世紀初頭の遺物しか出土していません。下層の集落が洪水などの要因で短期間に土砂で覆われ、その後、時間をおかずに上層の集落が復旧されたことが想定されます。

←上層 ←下層 耕地整理前の耕作面↓

桃色:掘立柱建物水色:井戸

緑色:溝

村前東A 遺跡の遺構

村前東A 遺跡では、掘立柱建物7棟以上、井戸16基、溝20条が検出されたことから、集落と考えられます。ただし、これらの遺構数は、何度も作りかえられた集落が重なった結果です。1時期には、数棟の建物と数基の井戸から構成されたようです。溝は、地割り?区画や用水?排水のために掘られたものと考えられます。南側から見つかった大溝を境に集落が途切れることから、集落の境を示した

可能性があります。

掘立柱建物 「ひさし」をもちます。長さが9

mあり、調査区内で最も大きな建物です。

青磁?白磁 当時、国内では青磁?白磁を作ることができず、中国から輸入していました。村前東A遺跡からは、椀や皿が出土しました。青磁椀には、蓮の花をモチーフにした文様が見てとれます。

井戸 見つかった16基の井戸は、円形もしくは隅丸方形

の素掘りです。直径は1.5~3mほど、深さは2m以上あ

ります。湧水が著しく、ポンプで排水しないと、すぐに水が溜まります。

白磁 漆器の断片(長さ5㎝)

井戸の埋土から出土した漆器の断片です。木質部の大半はすでに腐っていますが、表面に塗られた漆の膜のみが出土しました。黒色の漆で全面を塗った後に、鮮やかな朱色の漆で木の葉が描かれています。

珠洲すず

焼のすり鉢と壺?甕

能登半島の先端にある珠洲市で焼

かれた陶器です。日本海沿いに広域に

流通しており、県内の中世遺跡からは

多く出土します。食器は漆器が使われ

るようになりますが、耐久性が必要な

すり鉢や壺?甕には珠洲焼が使われました。

珠洲焼

土錘の使用方法(参考) 土錘は、漁で使う網のおもりで

す。

網の下端に一定の間隔を置きながら装着したと考えられます。

(糸魚川市浦本漁港付近で撮影)

柄目木遺跡の調査

掘立柱建物

溝の中から土師器がまとまって出土

←地割り?区画の大溝

掘立柱建物

地割り?区画の大溝→

下層の遺構

上空からみた柄目木遺跡

下層の遺構と遺物

←下層 ←上層

柄目木遺跡の地層

地層の観察により、2層(上層?下層)の遺跡が存在することがわかりました。上層(黄色)は中世~近世、下層(白色)は中世(14世紀)に位置付けられます。さらにその下からは、平安時代(8世紀後半~9世紀初頭)の遺跡も部分的に見つかっています。安定した地盤の上で、繰り返し集落が営まれたようです。

下層(今年度調査範囲)からは、掘立柱建物3棟と地割り?区画の溝を見つけました。いずれも同じ方向を向いており、同時期に計画的に作られたものと考えられます。 下層の集落の中心部は、平成20年度調査区にあったことがわかっています。ここには井戸や建物が多数検出されています。今回の調査範囲は、集落の縁辺にあたるものと考えられます。 大溝と平行して掘立柱建物が建てられています→

地割り?区画の大溝

掘立柱建物

掘立柱建物

←地割り?区画の大溝

地割り?区画を示すと思われる大溝が見つけました。溝の

規模は、幅3m、深さ1.4mほどで、底を一段低く掘り込んでいます。若干の勾配があり、水が一方向に流れるようになっていました。また、直角に曲がるように見つかったことから、館の堀である可能性が考えられましたが、溝の内側からはほとんど遺構が見つかりませんでした。 溝の埋土からは、多数の遺物が出土しました。特に土師器の皿は、ほとんど破損していない状態のものが、特定の範囲か

らまとまって出土しました。何らかの祭祀が行われた可能性があります。

火葬土坑内の炭の出土状況

(炭の中に細かな骨片が混じります)

←笹神丘陵産の陶器

中世には、笹神丘陵で陶器が焼かれました。珠洲焼のように広域には流通せず、阿賀野川流域の下越地方のみで使われました。

↑大溝から出土した土師器の皿(右下は瀬戸美濃)

土師器の皿の内面には油煙や焼け焦げが付いており、「灯明皿」として使われたと考えられます。ロクロで成形した後、回転させながら「へら」で切りとる阿賀北地域に特徴的な技術で作られています。

は じ き

上層の遺構

上層からは、壁面?底面がよく焼けた土坑4基を検出しました。大きさは、いずれも100cm×70cm ほどで、深さは残りの良いもので35cm を測ります。形は、隅に丸みをもつ箱形です。中央に1条の溝が掘られていることが特徴で、火力を高めるために空気を送り込んだ施設のようです。土坑の内部からは、底面付近に多量の炭が出土しましたが、炭の間からは白く焼けた骨片が含まれていました。骨片は人骨とみられ、火葬施設として利用された遺構と考えられます。周辺からは、多量の骨片と炭が入った小さな穴も見つかっており、調査対象地で葬送が行われたようです。関東地方では同様の土坑が多数検出されており、「火葬土坑」と呼ばれています。出土遺物がなく、土坑の年代は定かではありませんが、検出層位と関東地方における類例の年代観から、中世後半に位置付けられる可能性が高いと考えています。今後、出土した炭の放射性炭素年代を測定し、検証していく予定です。また、新潟県内における火葬土坑の類例は、長岡市松葉遺跡など数例が認められるのみです。このような火葬施設が導入された背景を検討し、地域の葬送の歴史の一端を明らかにしていきたいと考えています。

火葬土坑

↓ 骨片

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