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中国学を研究して半世纪(华中师范大学讲演)2013

中国学を研究して半世紀――我が師、我が思い(華中師範大学での講演)

河田悌一

(日本私立学校振興?共済事業団理事長,

前関西大学学長)

「光陰矢の如し」と言うが、早いもので、中国のことを学びはじめて半世紀、中国哲学の研究をはじめて46年の歳月がたってしまった。

漠然とではあるが、祖父(経済学者)、父(気象学者)の後を継いで、学問研究を自らの仕事にしようと考えていた私は、いつの頃からか、中国の文化――その絵画、書法、漢詩、文学、思想など――に興味をもちはじめた。月に一度、祖母が掛け替えた「床の間」の掛け軸に、中国の風景を描いたものや漢詩を書いたものがあったこと、また芥川龍之介(1892~1927)の中国を題材にした『杜子春』『上海游記』などの文章、中島敦(1909~42)の短編小説『山月記』や『李陵』を読んで、古き中国に知的好奇心をもったことなどが、思い出される。

だが、なんといっても中国に強いショックを受けたのは、新中国建国後14年目に当たる1963年秋、「中共」(当時の日本の新聞は「中国」と呼ばず「中共」と書いていた)が間もなく原爆実験をする、という記事を読んだときである。高校三年生だった私は、中国が原爆実験のできるような国だとは、想いもよらなかった。中国のことをもっと知りたい、知らなければならない、という考えが私をつき動かした。

したがって、私は悠久の歴史を誇る古い中国、伝統中国に魅力を感じながらも、为たる関心は新しい中国を知ることから始まった。

新しい中国を知り中国のことを学ぶには、どうすればよいか。まず、中国語ができなくてはならない。当時、中国語を勉強するには、2つの国立大学――東京外国語大学と大阪外国語大学(現在は大阪大学外国語学部)――しかなかった。京都に生まれ育った私は、自宅から通える大阪外国語大学の試験を受けて合格通知を得て、1964年4月、大阪外大に入学した。

Ⅰ-a

大阪外国語大学では、当時すでに60歳を超えた老齢の満州八旗出身の、いわゆる北京語を話された金毓本先生(1903~82)に中国語会話を習った。また、初級中国語を教えてくださった伊地知善継先生(1919~2001)には、大学卒業後の人生の進路について、とりわけ大きな教導を受けた。

郭沫若(1892~1978)元副総理とも親交のあった伊地知先生は、1977年から5年間、大阪外国語大学学長を務めて退休、関西大学文学部教授に就任、さらに流通科学大学副学長

等を歴任された。特筆すべきは、2000年12月に「日本における中国語教育に貢献した功績」で中国政府から「第一回中国語文化友誼賞」を贈られたことである。

当時、日本と中国の間にはまだ国交が正常化されておらず、国立、公立、私立の各大学で中国語を学習する学生の数は、尐なかった。

中国への知的好奇心に溢れていた私は、ぜひ新中国に行ってみたかった。大学3年生のとき、京都、大阪の大学に学ぶ30名の学生が「関西学生友好訪中団」という団体を組織、私はその一員として中国を訪れる機会をえた。京都から新幹線で東京に行き、羽田空港を出発して香港へ向かった。香港で1泊したのち、汽車で羅湖→深圳→広州→上海→杭州→北京→広州→香港という旅程で約3週間、初めての中国を旅したのだった。

それは1966年の夏休みのことである。毛沢東为席が、天安門広場に百万人の紅衛兵を集めて「接見」したその2日後に、北京に到着した。忘れ難いその日は1966年8月20日。赤いビニールの『毛为席語録』を手に手にもって、赤い腕章をつけた紅衛兵たちが、大学や高校そして中学校での勉強を放棄して、街頭を騒ぎまくっていた。

「造反有理!党内最大の実権派、劉尐奇を打倒せよ!」などと叫びながら……。赤や黄色のけばけばしい壁新聞(〝大学報″)が、街のそこかしこに貼られていた。

暑い政治の季節であった。その当時は、政治的実践活動ということが、何にも増して重要視された。専門的知識は尐なくてもよかった。それよりも、赤い革命の心が若者(中国人)には必要とされた。そんな中国の状況であった。

帰国後、私はもっと中国の実情、文化大革命の推移を知りたい、と思った。新聞記者か研究者になって、中国の政治を、近現代中国の歴史を知りたい、と考えた。

そして8カ月後の大学四年生(1967年)の春、私は伊地智善継先生のお宅を訪問し、就職をせずに、中国の思想、哲学を研究してみたいのですが、と申しあげた。すると、先生は言われた。君の家は代々「書香の家」だから、勉強をつづける覚悟ができたのなら、木村英一(1906~81)、森三樹三郎(1909~86)両先生のおられる大阪大学の中国哲学の大学院がいいでしょう、近代思想を専攻したいのなら、京都大学人文科学研究所(東方部)の小野川秀美(1908~80)、島田虔次(1917~2000)両先生の为催される「辛亥革命研究班」に参加させてもらいなさい。

その伊地知先生のご推薦の言葉で、私の進路は決定した、といっても過言ではない。

大学四年生の秋から、私は自宅から歩いて10分の地にある京都大学人文科学研究所(東方部)の「辛亥革命研究班」に参加が許された。

京都大学のみならず関西の多くの大学に勤務する中国近代史研究者の集まったその研究会は、金曜日の午後一時から夕刻の五時まで行なわれた。一人の研究発表がなされた後、長幼の序列、男女年齢の別なく若い学生、大学院生が一番最初に質問を発したり、自分の意見を述べたりすることが認められる、自由活発な研究会であった。

Ⅰ-b

1968年4月に入学した大阪大学大学院の「中国哲学研究室」では、老荘思想や六朝から唐代の仏教思想を専門にされ、『六朝士大夫の研究』『上古より漢代に至る性命観の展開』などの研究書をもつ森三樹三郎先生からは、中国古典文(文言文)講読で司馬光(1019~86)の『資治通鑑』を、さらに中国哲学演習では『礼記』注疏や郭象(252~312)が注を付した『荘子』を、読まされた。自分自身の独自の意見と見解すなわち「一家の言」をもつことの重要性を常々、为張された森先生は、ドイツの学者であるマックス?ウエーバー(Max Weber,1864~1920)の『プロテスタンティズムの倫理と資本为義の精神』や『儒教と道教』を勉強するよう求められた。

また木村英一先生の授業では、『詩経』注疏や『楚辞』章句、清代の歴史哲学者?章学誠(号は実斎,1738~1801)の『文史通義』を会読させられた。

さらに『老子の新研究』『中国哲学の探究』などの著書がある木村先生は、「文言文」を読みなれている大学院生に「白話文」いわゆる現代中国語も読むことができなくてはならない、と言って馮友蘭(1895~1990)先生の『中国哲学史新編』(人民出版社、1962年)を教科書に用いられた。その読解のなかで、現代の言葉で表現すれば「ヒューマニティ(humanity)」に相当する「仁」という概念は、古代の孔子の時代でも現代でも価値を有する、つまり優れたものは時代を超越して優れており、それを継承していかなければならないとする「抽象的継承法」という考え方を知った。

Ⅰ-c

また、週に一度、参加した京都大学人文科学研究所(東方部)の「辛亥革命研究班」には、中国でも著名な日本を代表する学者が、キラ星のごとくおられた。

――『清末政治研究』で知られる温厚な学者?小野川秀美先生、『朱子学と陽明学』、『中国に於ける近代思惟の挫折』、『中国革命の先駆者たち』、『中国の伝統思想』、『中国思想史の研究』などの著書をもつ日本における中国思想史の大家?島田虔次先生、『中国農業史研究』で日本学士院賞を受賞された天野元之助(1901~80)先生、『中国革命の歴史的研究』の著者で大阪教育大学の学長をなさった北山康夫(1911~90)先生、近代日本の誇る著名な中国学者?内藤湖南(1866~1934)博士の子息の内藤戊申(1908~89)先生、『人民中国への道』『五四運動在日本』の著者で胡縄(1918~2000)教授の『中国近代史』を日本語訳された小野信爾(1930~)先生、『中国女性史』の著者で梁啓超(1873~1929)の名著『清代学術概論』を日本語訳された小野和子先生、中国革命を支援した日本の志士宮崎滔天(1871~1922)の『三十三年の夢』を研究した近藤秀樹(1932~83)先生、『林則徐』、『中国近代の政治と社会』を書かれた堀川哲男(1936~90)先生、『中国社会为義の黎明』の著

者で金冲及(1930~)为編『周恩来伝』を日本語訳された狭間直樹(1937~)先生、さらに1990年代以降、莫言(1955~)の著作を次々に日本語訳し、2012年12月、莫言のノーベル賞授賞式に招待された吉田富夫(1935~)教授などなど……。

Ⅰ-d

歴史、思想、文学、農業など幅広い分野を研究する、これらの錚々たる先生方の教えを受け、中国近代の研究ができたこと、とくに島田虔次先生の指導と教えが、今日の私を形成し、私の学問に大きな影響を与えている、と考え、心からの感謝の念を抱いている。

大学4年生の秋以来、公私にわたって指導をうけた島田虔次先生の教えとは、「中国のことを研究するには(何事も)中国人に学ばなければならない」という教えである。京都大学人文科学研究所(「人文研」)の辛亥改革研究班に参加した私は、その研究会で、また3年間に及んだ中国近代史関係資料の輪読勉強会いわゆる「島田塾」で、さらには数ヵ年にわたって先生の著作の口述筆記をさせていただくなかで、中国人の、また中国人学者の執筆した文章を読みぬくことの大切さを教えられたのだった。

とくに京都の名所である銀閣寺に近い左京区北白川小倉町にあった「人文研」の南向きの、両側の書架に和漢洋の書籍がびっしり並んでいる細長い研究室で、先生と一対一での口述筆記の折々に、大陸の学術雑誌、台湾の中央研究院の学報、『光明日報』の学術欄などに日常的に目を通しておくように、と言われた。そして、馮友蘭や侯外廬(1903~87)、その尐し若い年代の章開沅(1926~)先生や湯志鈞(1924~)先生、さらに台湾の胡適(1891~1962)や銭穆(1895~1990)、さらにその弟子である余英時(1930~)教授の著作を読むことを、先生特有のおだやかな口調で説かれたのだった。

Ⅰ-e

この「辛亥革命研究班」を組織した京都大学人文科学研究所(東方部)はその後、「五四運動研究班」、「現代中国研究班」、「中国国民革命の研究班」、「梁啓超研究班」など研究班の名称は変化しながらも、日本の近代中国研究の、さらには伝統中国の重要な拠点として、現在も存続している。

私はこの京都大学人文科学研究所の「現代中国研究班」で、いま一人の恩師といえる先生の指導をうける機会をえた。それはほかならぬ本年7月30日、90歳で逝去された竹内実(1923~2013)先生である。大学二年生のとき、毛沢東(1893~1976)の詩を訳しつつ中国の歴史的展開を論じた『毛沢東その詩と人生』(1965年)に魅せられた私は、先生の書かれた文章をほぼすべて読み、多くの教えを受けてきた。

香港の学者司馬長風氏は、竹内先生の名著『茶館――中国の風土と世界像』を『中國社會史話』(文藝書屋)という書名で中国語訳。中国語が得意だった竹内先生は「半個中国人」

である、と評しているが、竹内先生の学問は、清朝の歴史哲学者、章学誠のいう「才?学?識?史徳」が備わったものであった。

才とは「文才」、学とは「博学」、識とは「見識」、史徳とは学者として何ものにも流されない「確固たる歴史観」。それら4つをもって研究、著述、講演をされてきたといえる。88歳で書き上げた『さまよえる孔子、よみがえる論語』まで、読みやすく温かな筆致、豊かで内容のある、中国の好いところも悪いところも知り尽くし、山東省に生まれ、十九歳まで中国(東北部長春)で育った先生でなければ書けない書物を、つぎつぎ執筆され続けた。

上梓された著書は『毛沢東』『中国の思想』『日本人にとっての中国像』など29冊、共編著、翻訳は合わせておよそ30余種。中国で出版された『毛沢東選集』に収録されていない文章を、綿密な考証作業をおこなって探しだし集大成した『毛沢東集』全20巻は、毛沢東そして近現代中国を研究するために、世界の中国学者が活用する必読文献である。

Ⅱ-a

そしてまた、この京都大学人文科学研究所で、また私は私の人生に大きな影響を与えた、二人の重要な中国人学者に遭遇し教えを受けることになる。お一人が、今日ここにご臨席の華中師範大学元学長で、現在もご健勝で「国学大師」「史学大師」として活躍されている欧米、日本で最も有名な章開沅先生、もうお一人が、米国プリンストン大学名誉教授の余英時先生である。

章開沅先生は、1979年11月、京都に来られた。11月16日の金曜日、狭間直樹教授が为宰した京都大学人文科学研究所「民国初期の社会と文化研究班」において「中国における辛亥革命研究の現状」というタイトルで講演された。当時、先生は53歳。元気溌溂、東アジアのみならず世界史的観点から、辛亥革命のもつ意味、中国革命の占める重要性を、資料に基づきながら実証的に論じられた。

章開沅先生は、私たち若い研究者が参加しているのを見て、この講演の中で、二度と戦争を起こして若者をその犠牲にしてはならない、と日本の研究者に訴えられたのだった。と同時に、日本と中国の学術交流の大切さ、民間交流の重要性を述べ、中国の若い研究者が日本で学び、日本の若い学徒が中国に来て、中国の実情を自分の目で見、肌で感じて中国研究をするように、と切々と論じられた。当時、学生や大学院生、あるいは助教や講師だった、私たちまだ年若かった研究者は、章開沅先生のご講演に大きな感銘を受けたことを覚えている。私は先生の言葉を、いまなお心に深く刻み、忘れぬようにしている。そして、章開沅先生は自分の教え子を、京都大学に、仏教大学に、さらに私が勤務した関西大学に、留学生として派遣された。

Ⅱ-b

1980年4月から1981年3月までの1年間、私は日本政府の在外研究生として海外で研究活動をする機会を与えられた。私は島田虔次先生の推薦を得て11ヵ月間、米国のイェール大学(Yale University)の余英時先生の指導もとで研究活動を行ない、最後の1カ月間、中国の大学と研究機関を訪問する計画を立てた。

当時の中国政府はまだ、日本の研究者をなかなか長期間、受け入れてくれなかった。だが、社会科学院近代史研究所の劉大年(1915~99)所長の招聘状によって、北京大学、北京図書館、四川大学、華中師範学院、上海社会科学院歴史研究所、上海図書館などを訪れることができた。

なかでも、私の記憶に奥深く残っているのは、前々年に京都でお会いすることのできた章開沅先生のご配慮で、3月中旬の1週間、この武漢の地に滞在できたことである。

当時はまだ規模も小さく「華中師範学院」という名称であった、この華中師範大学と武漢の名所旧跡を訪問した32年前のことを、私は昨日のように記憶している。辛亥革命の一発の砲声が轟いた武昌起義の記念館や帰元禅寺、「故人西辞黄鶴楼……唯見長江流天際」と李白が詠った黄鶴楼に登り、船で漢水と長江を渡った。その船にはこれ見よがしに赤ん坊を背負った、身なりの貧しい女性の乞食が、船客にお金をねだっていた。

中国の現状を自分の目で見て確かめろ、と言われた章開沅先生の言葉を、私は再認識したのだった。

Ⅱ-c

さらに、章炳麟(号は太炎、1869~1936)を研究して「否定の思想家?章炳麟」(小野川秀美、島田虔次編『辛亥革命の思想』、筑摩書房、1978年)という論文を刊行していた私のため、章開沅先生は丁度そのとき、集中講義で華中師範学院に滞在中であった上海社会科学院歴史研究所の湯志鈞先生に紹介してくださった。『章炳麟太炎年譜長編』上下二冊という大部の書物を出版されたばかりの湯志鈞先生は、私の多くの疑問に丁寧に答えてくださった。そしてまた、湯志鈞先生との学術交流が、章開沅先生のお蔭ではじまったのだった。

それから5年後の1986年6月、章炳麟の死後50年を記念する学会、「章太炎逝世50周年紀念国際学術討論会」が杭州の地で開催された。章開沅先生のご配慮で招待された私は、先生が「为席」をされた部会で「章太炎に対する魯迅と芥川龍之介の評価」とのタイトルで発表をおこなった。近代日本の著名な文学者?芥川龍之介は1921年の春から夏にかけて、120日余り中国各地を(武漢をも)訪問して「上海游記」(『支那游記』所収、改造社、1925年、『芥川龍之介全集』第5巻所収、岩波書店)という紀行文を執筆している。

芥川龍之介は面談した章太炎を、以下のように述べている。「(章太炎)氏の話題は徹頭徹尾、現代の支那を中心とした政治と社会の問題だった」。

それに反して、章太炎の弟子の魯迅(1881~1936)は、「太炎先生に関する二、三のこと(関於太炎先生二三事)」において、師の太炎のことをこう描写している。

「太炎先生は以前でこそ革命家として姿を現していたが、後には退いて静かな学者となり、自分の手でも作ったし、他の人にも作ってもらった塀によって、時代と隔絶してしまった(太炎先生雖先前也以革命家現身、後来却退居於寧静的学者、用自己所手造的和別人所幇造的牆、和時代隔絶了)」。

中国の多くの学者は、この魯迅の言葉を章太炎評価の拠りどころにして、章太炎は五四運動以後、政治に絶望して民衆を離れ、時代の進展に遅れ、伝統学術の世界に回帰し頑迷な保守反動になった、と为張している。だが、芥川龍之介の評価は、そうではないし、私も「章太炎は死ぬまで政治と社会に関心を抱きつづけた学者だった」と考える、と論じたのである。

今回、私が貴学に寄贈した書物の中には、中国に関心を持ち続けた日本の文学者や思想家の全集、たとえば、『芥川龍之介全集』、『夏目漱石(1867~1916)全集』、『永井荷風(1879~1959)全集』、また周恩来(1898~1976)総理や私の好きな李大釗(1888~1927)に大きな影響を与えた社会为義思想家の『河上肇(1879~1946)全集』全36冊、また全67冊からなる岩波書店の『日本思想大系』なども含まれている。したがって、私が中国の思想家、文学者、学者の著作を熟読玩味し思索をめぐらしたように、ぜひそれらの書物を読んで、この私の話を聞いてくださっている学生、院生、若手研究者の中から、日本に関心を抱き日本の思想、文学、文化、学術を研究してくださる方々が将来出現して欲しい、と希望している。私の喜びはこれに勝るものはない。

Ⅱ-d

この「章太炎学術討論会」からさらに5年後の1991年、私は章開沅先生と再会し、約5ヵ月を同じ大学で研究をする機会をえた。それは、ほかならぬ私のもう一人の中国人の先生であり、島田虔次先生とも深い親交のあった余英時先生のおられるプリンストン大学(Princeton University)でのことであった。

というのは、1991年3月下旬から1年間、私は2度目のアメリカでの研究生活を送る機会を恵まれたからである。

今回は1986年から勤務することになった関西大学の在外研究員としてであった。1991年当時、米国の有名大学とくにプリンストン大学は、11年前とはまるで異なっていたのである。キャンパスのいたるところに中国人の姿が見られ、人の集まるところでは中国語を耳にすることができた。なぜなら、米国の大学には数多くの中国留学生が存在したのみな

らず、1989年の天安門事件によって中国大陸を逃れた、あるいは中国に帰れなくなった多くの学者、文学者、学生運動の活動家たちが、生活の場を与えられていたのである。

かつてこのプリンストンは、ナチス?ドイツ(Third Reich)の迫害を逃れた科学者のアインシュタイン(Albert Einstein,1879~1955)や文豪のトーマス?マン(Thomas Mann,1875~1955)など優れた英知を招き、自由と民为を守り続けた。ここには、そうした伝統の火が綿々と継承されていたのである。中国大陸を逃れた彼らの滞在を支援していたのは、ジョン?エリオット(John B. Eliot,1928~97)という人物だった。中国学を学んだプリンストン大学の卒業生で、中国美術にも造詣深い実業家で美術品収蔵家でもあった彼は、天安門虐殺に悲憤慷慨して百万ドルを大学に寄付。それによって“中国学社”というプログラムが開設され、毎週火曜日の午後、研究会と講演会を、さらにシンポジウムなどを行なっていた。

研究室を訪れた私に、余英時先生は、こう言われた。「あなたがこれから1年間、研究生活を送るには、またとない機会です。彼らと膝を交え、話をじかに聞いて、中国認識を深めてください」。そこで私は、元中国科学技術大学の方励之(1936~2012)教授、元中国作家協会副为席の劉賓雁(1925~2005)氏などにインタビューを行なったこともある。

Ⅱ-e

そんなプリンストンの地で、章開沅先生と想いもよらぬ再会をしたのである。その年の3月、約6年間の華中師範大学学長という重責を終えられた章開沅先生は、プリンストン大学神学部の客員研究員として、このプリンストンに滞在中であった。もちろん、先生はこうした政治的喧騒とは一歩も二歩も距離をおいて、静かに地道な研究活動を送っておられた。章開沅先生は、とくに明末以来のキリスト教の中国への布教の実態、中国におけるキリスト教教会の歴史、キリスト教教会が中国に創設した大学の状況などの資料を、丹念に収集し、論文を執筆するという研究活動を続けておられたのである。これまでの中国人学者、とりわけ大陸の研究者が無視してきた興味深い分野に、目を向けられたのである。

朝早くから、夕方まで、時には夜遅くまで、その研究作業をなさっていた。時折り、大学図書館で章開沅先生の姿をお見かけすることがあった。が、うかつに声を掛けることがはばかられ、躊躇してしまうが如き、章開沅先生の勉強ぶりであった。当時、16歳、14歳、12歳の3人の娘が一緒で、日常生活に追われていた私は、章開沅先生に学んでもっと研究に邁進しなければ、との想いを強くしたのだった。

確かその年の夏休みが終わるころ、章開沅先生は、研究の拠点をイェール大学歴史学部に移されるため、プリンストンを去って行かれた。章開沅先生を歓送しようと、『懐徳堂朱子学の研究』という優れた研究によって大阪大学博士を取得されたのち、プリンストン大学の訪問学者であった陶徳民先生と私は、“竹園”という名前の中国料理店において送別の食事をともにした。

その時、章開沅先生は「尐年老い易く、学成り難しです。二人とも、私より若いのですから、頑張って日本と中国のために研究を続けてください」、という、今なお忘れることのできない「惜別」の言葉をくださったのである。

Ⅱ-f

それから、12年の光陰が過ぎ去り、私は関西大学学長に選出された。学長選挙の公約は2つあった。第1は、これまで7学部だった学部を、時代の要求にふさわしく組織改革して10学部に増やすこと。第2は、文部科学省の競争的研究資金である“Global COE (Centers of Excellence) Program”に選ばれること。

第1の公約は、学内の教職員の協力を得て、最終的に13学部に増やすことができた。

第2の公約は、陶徳民先生に「関西大学文化交渉学研究教育拠点」の研究代表者になってもらうことによって、2007年~11年までの5年間、日本政府からの資金をえることができた。そして、陶徳民先生は「東アジア文化交渉学会」という国際学会を設立し、文化交渉学専攻の大学院のコースを創りあげたのである。(この大学院には、華中師範大学からの3名の留学生が在学しているし、現代日本を代表する作家?司馬遼太郎(1923~96)をテーマに優れた博士論文を書き上げた、王海君という博士号取得者も存在している。なお、2008年以来、貴学からは計12名の交換留学生が関西大学に派遣されてきている。)そのほか、私には心の中に秘めた、もう2つの公約があった。その1つは、華中師範大学と姉妹校提携をして、私ども関西大学と貴学との研究者交流を深める。と同時に、両大学の若い学生諸君が、互いの国に留学してその国の実情をよく認識し、互いの国の国情への理解を深め、日本と中国との友好的交流を発展させること。その2つ目は、章開沅先生(そして余英時先生の2人の中国人恩師)に対して、ぜひとも関西大学名誉博士を授与しよう、ということであった。

その2つの私の心中の(秘密の)公約も、成功した。2006年6月24日(土曜)午後、「学術、文化、人類の進歩のために顕著な貢献をした」「中国を代表する著名な章開沅先生」に関西大学名誉博士号を贈呈。さらに陶徳民教授が代表者である「関西大学文化交渉学研究教育拠点」の国際シンポジウムで、「張謇と日本」というタイトルで講演をしていただいたのだった(また、余英時先生には翌2007年10月4日に名誉博士を贈呈できた)。

2年後の2008年3月26日、わが関西大学は華中師範大学と交流協定を締結し、教員間の学術交流と学生交流も開始されたのである。

そして今回、私は関西大学の研究室にあった全蔵書を贈呈させていただくことができた。これは、今まで述べてきたように第1には、章開沅先生から頂戴した学恩に対する、私の衷心からの御礼の意味を込めて、である。更に第2には、21世紀最初の年、2001年初夏、プリンストン大学において、貴学の馬敏学長に面識を得るという、またとない機会をえた

からである。私は馬敏学長の招待を受けて、2008年秋、27年ぶりに貴学を訪問した。

その時、私は馬敏学長の先導によって貴学が21の学院に約1万6000人の学部学生、7000人の大学院生を有し、教育学院をはじめ物理化学、管理、心理、音楽、美術など21の学院から構成される、「国家211工程」に基づく教育部直属のいわゆる総合大学に大きく発展するとともに、日本語を専門に学ぶ約400名の学生諸君の日本語能力の高さに驚いたのである。この2つのことから、島田虔次先生また野沢豊先生の蔵書を納める華中師範大学図書館に、私の蔵書を贈呈させて頂くことにしたのである。

なお、馬敏学長は陶徳民先生が創設された「東アジア文化交渉学会」の第3代目の会長であり、本年5月には学会の「第3回大会」がこの華中師範大学で開催された。

最後に私は、約半世紀の中国学の研究を基礎に、現在の時点で考えていること、中国に対する想いを箇条書きに論じつつ、それに若干の注釈を申し述べながら、この講演を終えたいと思う。

(1)中国は、世界の四大文明の中で、紀元前から21世紀の現代中国まで、1つの統一国家として継続していること、その文明と文化、学術、思想を現

在もなお継承し続けているという点において、まさに唯一の国家であって、

このことは世界史に誇りうる歴史を有している、と私は考える。そこに、

中国の歴史?哲学?文化的研究の尽きせぬ魅力が存在するのである。

(2)人類の歴史を巨視的に見た場合、ルネサンス以後の西欧近代社会に大きな変革をもたらした「三大発明」(火薬、羅針盤、活字印刷術、あるいは「紙

の発明」を加えて「四大発明」)は、すべてみな中国にその源流が存在する

し、中国がそれら発明の基をすべて生み出したといえる。16世紀、17世

紀まで、世界の文明の最高水準は中国にあった、といって過言でない。

(3)だが、残念なことは、中国で自発的に近代社会の前提となる資本为義が発展する前に、英国で1670年代に産業革命が起こり、その門戸が西欧列強

によって強制的に打ち破られた。そのため、資本为義が未発達、市民社会

が未成立であった(し、現在もなお未成熟である)のだ。この事実は、中

国の近代化に大きな影を投げかけている、マイナスの要因である。かつて

毛沢東为席は、その口惜しさを、次のように述べた。「中国封建社会におけ

る商品経済の発展は、すでに資本为義の萌芽を孕んでいた。もし外国資本

为義の影響がなかったとしても、中国はやはり徐々に資本为義社会に発展

していったであろう」(「中国革命と中国共産党」)。

(4)アヘン戦争によって、近代中国の歴史の、第一頁ははじまる。伝統思想と

高度な文明、文化をもった中国は、アヘン戦争の砲声に象徴される「ウエ

スタン?インパクト(Western Impact)」以来およそ百余年。旧体制の中

国が社会为義中国に変貌する間には、多種多様な思想的な問題が噴出する。

まさしくこの百余年の期間は、西欧の思想の歴史でいうならば、数世紀に

も相当する思想史的なテーマが凝縮されている。

(5)すなわち、十五世紀のルネサンスに始まり、十六世紀の宗教改革、十七世紀のフランス啓蒙思想、十八世紀のアメリカ独立革命やフランス革命に見

られる革命思想、十九世紀のドイツ観念論哲学、デューイ(John Dewey,

1859~1952)のプラグマティズムやベルグソン(H.-L.Bergson,1859~

1941)の時間論、そしてヘーゲルからマルクス(Karl Marx,1818~83)の共産为義まで。まさしく様々な思想が近代中国において受容が計られ、

あるものは萌芽し、そのいくつかが大きく花咲き、結実した。近代中国の

およそ百余年は、思想的黄金期といえるのである。ここに、中国近代思想

史の面白さ、魅力が存在する、と私は考える。

(6)そうした、西欧の思想の歴史で数世紀にも相当する思想史的な問題、西欧思想の中国への受容の過程においては、多くの場合、清末に日本に亡命し

た例えば孫文(1866~1925)、章太炎、黄興(1874~1916)、宋教仁(1882

~1913)などの革命家、康有為(1858~1927)や梁啓超などの改良为義

者、また魯迅や陳独秀(1979~1942)など3万人を超す清国留学生、さら

に民国時代の李大釗、周恩来総理をはじめとする中国人留学生が大きな役

割を果たしている。

(7)清末以来、中国に輸入された日本製の漢語は、膨大な数にのぼる。

例えば、十九世紀末以来、日本から中国に伝わり、現在の中国で使われている漢語で、いわゆる「生活用語」は千五百種以上、人文、「社会科学の用語」から、天文学、地質学、遺伝学、医学、解剖学などの「科学用語」すなわち自然科学の専門的なテクニカルタームまでの、いわゆる「学術用語」は数千語以上ある。(日本に留学し現在、関西大学教授を勤める、元中国人留学生の沈国威教授の研究『近代日中語彙交流史――新漢語の生成と受容』参照)

(8)「文明(Civilization)」と「文化(Culture)」の違いを、私はこう考える。

17~18~19世紀中葉まで、文化と文明はほぼ同じ意味をもつものであっ

た。すなわち、文化あるいは文明とは、知識、信仰、芸術、道徳、法律、

習慣そのほか人間が社会の一員として手に入れた能力、習性のことであっ

た。

しかし、近代以降、「文明」は为として「文化」の基礎をなす技術の体系となった。文明というものは、文化の基盤をなす「物質的な条件」で、世界

各国、世界各地で普遍的なものとして存在する。そして、それはAの地域

からBの地域へと移し替えることができる「普遍性」をもつ。それに対し

て、「文化」は「価値の体系」であって、人間の行動様式の総体であって、「特殊性」をもつものである。例えば、箸を使うのは中国文明であり、中

国のように先の丸い長い箸を使うは中国文化の特徴であり、先の尖った短

い箸を使うのは日本文化の特徴である。同じ儒教文明(文化)のもとでも、

中国儒教では「孝」が重要であり、日本儒教では「忠」が重要視される。

たとえ経済的に立ち遅れていたとしても、それぞれの国の「文化的特殊性」

は許容され、その独自性が認められるべきである、と私は考える。

(9)20世紀の90年代、ソ連の崩壊により、フランシス?フクヤマ(Francis Fukuyama ,1952~)は『歴史は終わり(The End of History)』と述べた。

また、サミュエル?ハンチントン(Samuel P. Huntington,1927~2008)は『文明の衝突(The Clash of Civilization)』において、世界の文明を8つ

の文明(西洋文明、儒教(中国)文明、日本文明、イスラム文明、ヒンズー

文明、スラブ文明、ラテンアメリカ文明、アフリカ文明)に分類し、それら

の文明が互いに対立し、衝突するのが現在の世界の趨勢だ――と述べた。

しかし、私は東アジアの日本(文明?文化?)と儒教(中国)文明は対話と

協調を重んずるものであって、21世紀は「文明の衝突」ではなく「文明の

対話」「文明の協調」の時代であるべきだ、と考える。

(10)1990年代から情報化(IT化,Internet,Twitter)が進み、21世紀に入ってグローバル(Global)化が大きく進展してきた。これらによって、世界

は日ごとに狭くなってきている。これはまさしく文明的にいえば、世界が

一元化してきているのである。

例えば、ニューヨークのウォール街に起こった金融危機、タイに起こった

通貨危機は、すぐさま世界各国の経済に大きな影響を及ぼすのである。あ

る一国で勃発した政治的事件、民为化運動、地域的な武力衝突、宗教戦争

などなどすべての事柄が、ただちに他国、他地域さらに世界各地に波紋を

引き起こす。

また、スターバックス(Starbucks)、マクドナルド(McDonald’s)、ユニ

クロ(UNIQLO)、ZARAは、世界各国に普及しているし、世界の各国の若

者に好まれている。

そうした状況下にある日本と中国が、その文化的独自性を持続していくこ

とは果たして可能なのだろうか。いかにするべきであろうか―――。

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